ありふれた、ただの散歩の話。
でもこうしたありふれた日常が、思ってみればとても幸せな時間だったりする。
意識しないと見えてこない
(お散歩道。奥の親子は仲睦まじい雰囲気だった)
お散歩道を歩いていた。右手には川が流れていて、せせらぎの音が心地いい。
ちょうど今日は風も吹いていて、少し涼しい。
太陽は雲をほどよく被っていてくれているから、あまり暑くなくてありがたい。
歩いていたら、道端に、コガネムシがいた。すぐ近くにいた2羽のハトも、仲良く地面のごはんをついばんでいた。左手の草木の中からは、よくわからない虫が鳴いている。
ふいに、背中の方でブーンって鳴ったので、驚いて走った。振り返ると、黒くて、少し大きいのが視界に入った。よく見えなかったけれど、たぶんあれはクワガタムシだ。
昨日から7月。もう、夏になった。
♢
夏になると、子どもたちは川遊びを楽しむ。川が身近になる季節だ。
ぼくはというと、川は年中好きだ。
季節も関係ないし、天気も関係ない。ただただ水が流れていくのを見ているのが、とても好き。石に当たったり、泡を含んだりするときの音を聞くのも、たまらなく好きだ。
大げさだけど、生きていくことと、川を近くに感じることは、切っても切れない関係だと感じている。ぼくにとって、川とはそれくらい大事な存在だ。
さて、こうした話は、なにも特別な話ではない。ありふれた、ただの散歩の話だ。
でもこうしたありふれた日常が、思ってみればとても幸せな時間だったりする。
♢
散歩してて思った。おじいちゃんになっても、こんな日常が楽しめたなら、とても幸せだなぁ、と。
今、僕は24歳だ。7月になり、今月は誕生日なので、そろそろ25歳になろうとしている。
ところが、心はすでに70歳くらいのおじいちゃんだ。そう思った。
ずっと歩ける身体だったらいいな。歩けなくても、車椅子で外出できれば、それもまたいい。
でも世の中のおじいちゃんたちは、中には寝たきりであったり、施設での暮らしを余儀なくされている人たちもいる。
おじいちゃんだけではないね。若くても、そういった人たちはいる。
それを思うと、やはり、好きな川を眺めながらお散歩するできることは、大変幸せなことなのだ。そう思わずにはいられない。
こうして文字にすると、なんだか急にダサく見えたり、逆にカッコつけているように見えたりするのがチョッピリ残念だ。でも本当にこう感じたんだから、仕方がないよね。
♢
目が見えること。耳が聞こえること。立って歩いて、外出できること…。
どれも当たり前のことなんだけれど、これが当たり前でなくなる瞬間が、いずれやってくる。
できればそれは、死と同時であってほしい。大きな病気もせず、おじいちゃんになっても、川の近くを散歩していたい。
ふわ〜っとした風が、部屋の窓から入ってきた。カーテンが揺れている。
外はまだ明るい。
日が沈む前に、もう一度散歩したい。