カミュの『シーシュポスの神話』を読みました。
というとウソになってしまうかな。難しくて理解できず、ほとんど飛ばし読みです。ちゃんと読んだ箇所は全体の1割くらいかな……。
ちゃんと読めたのは次の3つだけ。
- 最初の章にある「不条理と自殺」
- 真ん中にあった「シーシュポスの神話」
- 最後の付録として収録されていた「フランツ・カフカの作品における希望と不条理」
全体的に哲学者の書いた文という感じで、いまの僕には噛み砕くのに難儀しました。
今回は「不条理と自殺」について書いています。
「不条理と自殺」
難しかったのですが、それでも比較的わかりやすい箇所だけ、備忘録がわりにここに載せます。
真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。
それ以外のこと、つまりこの正解は三次元よりなるかとか、精神には9つの範疇があるのか12の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。そんなものは遊戯であり、まずこの根本問題に答えなければならぬ。
冒頭の一発目。哲学だ。
これまで自殺は社会現象のひとつとしてしか扱われなかった。しかし、いまここでまず問題にしようとしているのは、それとは反対に、個人の思考と自殺との関係である。自殺というこの動作は、偉大な作品と同じく、心情の沈黙のなかで準備される。当人自身もそれを知らない。
あるひとりの人間の自殺には多くの原因があるが、一般的にいって、これが原因だといちばんはっきり目につくものが、じつは、いちばん強力に作用した原因であったというためしがない。熟考のすえ自殺をするということはまずほとんどない。なにが発作的行為の引き金を引いたか、それを立証することはほとんどつねにできない。
決め手になる出来事はあったとしても、それはただ99→100にしただけ。それ以前に1から99までの積み重ねがあってのこと。
1→99までの積み重ねが、心情の沈黙のなかで形成されていく。
もちろん、生きるのはけっして容易なことではない。ひとは、この世に生存しているということから要求されてくるいろいろな行為を、多くの理由からやりつづけているが、その理由の第一は習慣というものである。みずから意志して死ぬとは、この習慣というもののじつにつまらぬ性質を、生きるためのいかなる深い理由もないということを、日々の変動のばかげた性質を、そして苦しみの無益を、たとえ本能的にせよ、認めたということを前提としている。
なんで生きているのかと聞かれれば、「生きているから」としか答えられない。グレーゾーンもないし、中間地点もない。生きているか死んでいるか。この2つしかありえない。
真の努力とは、それとは反対に、可能なかぎりその場に踏みとどまって、この辺境の地の奇怪な植物を仔細に検討することなのである。不条理と希望と死とがたがいに応酬しあっているこの非人間的な問答劇を、特権的な立場から眺めるためには、粘りづよさと明徹な視力とが必要である。
生きることを、真の努力だといっている。
「踏みとどまって」という表現も、いまの僕にとってはとても適切。
この章で気に入ったのは、死や生を肯定もせず否定もしていないところです。いろんな角度から観察し、スケッチしているだけ。それがまさしく哲学的な態度なのかもしれない。
その姿勢が心地よく感じられました。
さいごに
ちゃんと読んだもうひとつの章「フランツ・カフカの作品における希望と不条理」は、また違った話になってしまうので別記事にしようと思います。
今回は図書館で借りたけど、買って手元においておいてもいいのかもしれない。難しかったから、きっと読んでも1年に一度読むかどうか、って気もするけど。
ではまた。