『今日が人生最後の日だと思って生きなさい』という本を読んでいます。
写真は、カフェでこの本を読んでいたときの写真。
冒頭のページで、こう書かれていました。
まず初めに、お訊きします。
もし今日が人生最後の日だとしたら、あなたはどう生きたいですか?
-中略-
どのような答えであろうと、あなたが選んだものが、あなたにとっての正解であり、あなたにとって「本当に大切なこと」です。
そこだけ読んで本を閉じ、考えました。
書き出したメモを、ここに書き写しておこうと思います。
もし今日が人生最後の日だとしたら
今の自分は、こうしたい。
喫茶店に行き、1階の窓際の席にすわって外を眺める。いろんな人を見て、自分と重ねたり、関わってくれた人を思い出したりする。
実際に会える人は限られている。離れて暮らす人には手紙かメールを。
多くはメールかLINEで良いが、中でもこの人には、という人へは手紙を書きたい。そして余裕があれば、家族へも。
夕方は、今好きな人にお願いして1時間だけでも良いから一緒に食事をしたい。
今日が人生最後だと確定していて、それを他人へ言っても良く、さらに同意が得られるのなら、肌と肌でふれあいたい。
思っていることや、まだ鳴り続ける心臓の音を、その人と共有したい。
夜は、1人で海へ行きたい。
潮の香り、夜空の星々に囲まれて。波打つ音を聞いていたい。
そのとき持ち物は持っていない。普段どおりの服装だ。
腕時計をし、お気に入りの革靴を履いて。青いジーンズに薄いグレーのポロシャツ。
人の気配のない海岸で、スマホの電源も切って、1人、心臓が止まるのを待つ。
時間が気になるなら、つけていた腕時計は海へ投げ捨てるだろう。足が重いなら、革靴も脱ぎ捨てる。
死ぬ前にやっておくことは、心にとどめている未配達の感情を、届け先である誰かのもとへ送り届けることだ。それ以外にはないと思う。
部屋に残された本やPC、カメラなどは処分あるいは売却される。
それでいい。物なんてしょせん、あの世には持っていけない。死ぬ間際まで触れていたい物はない。
死を待つとき、きっと寝ころがるに違いない。大の字になって、星を眺める。
そうだ、それで寝てしまおう。
寝てしまえば、もう目覚めることはないのだから。
意識が遠くなったときに眠り、それが死に直結することを祈る。日付が変わるまで眠り続ければいい。
日付が変わる1分前とかに起きてしまわないよう睡眠薬がほしいところだけど……処方してもらう時間はないだろう。
あるいは、そもそも眠れないかもしれない。
そんなに人生やりきったといえるほど、満ち足りた日々は送っていないことに、仰向けに寝そべったときに気づくだろう。
そしてこう考える。
この人生、何があったか。
しょせん海岸沿いの砂粒の一つでしかない命だが、そんな命が宿っていた自分は、自らの命をどう使ったかと考えるだろう。
その、そろそろ燃え尽きそうな命が、まだいつまでも続くかのように感じられるほど、強い光を放っていたときのことを思い出すだろう。
人に与えた影響。伝えたことで、その人の中で何かが芽吹いたり、あるいは捨て去ることに寄与したこともあったかもしれない。
でも多いのは、圧倒的に、したことよりもしてもらったことだろう。
日々、いろんな人に助けられたし、救われてきた。
その日の午前中に喫茶店で思ったことをここで再び思い出す。今一度振り返って、目の前の、されど何億光年も離れた星々に感謝すると思う。
そうこうしているうちに、秒針が0時を指すだろう。そして死ぬ。
もし今日が人生最後の日だったら、そのようにして終わりたい。
さいごに
書き出してみて、自分の現在地がわかったような気がしました。
大切にしていることの優先順位や、大切だと思いこんでいたものが実はそうでもなく、ちっぽけなことだったことに気がついたりとか。
一昨年、心理学を学んでいたとき、先生に言われたことがあります。
「死ぬ直前ならできることを、なぜいまやらないんでしょう?」
聞いたときは痛いところを突かれた気がしてウゥッて感じました。
いまは半分程度はできていると思いたいです。