見過ごせない
つくづく、見過ごせない性格なのだなと思った。
本を読んでいるときであった。
あるエッセイだったのだけれど、歴史の話が出てきた。昔の戦争が書かれている。
今を生きる人間として、昔の戦争については知っておく義務があるのかもしれない。けれど、趣味として読んでいる本のなかで急に出てきた歴史の話には、正直気が向かなかった。
だから、読み飛ばして次のお話に進んだ。
ただ、次の話が頭に入ってこない。先ほどの歴史の話を読み飛ばしてしまったことが小さな後悔として後味になっていた。どんな歴史の話だったのか気になる、というのではない。そうではなくて、そこに何かあったかもしれないのに、見過ごしてしまったという気持ちだった。
で、結局ページを戻して、歴史の話を目で追った。
結果、読んでたのしかったとか、含蓄があったという印象は持てなかった。内容だけ考えたら読み飛ばしてもよかったかもしれない。
でも、たどってみて何も見つからなかったのと、たどらずにスルーしたのではまるで違う。やってみて、ダメだったのなら納得がいくというものだ。
読書でのこの体験は、ほかの事柄でも味わうことがよくある。つまり、スルーしてもいいのだけれど、何かあるかもしれないと思ってしばらく首をつっこんでみる、ということだ。
会社をやめたとき、次の就職先についての相談にのってもらったことがある。何度も話をしているキャリアカウンセラーの人で、それまでの仕事のことを話していたら、やはり同じことを言われた。
「嫌だったのに、それでも5年間も働き続けたというのは、まだ何か学べることがあるかもしれないと考えていたからなのね。〇〇さんはそういう人なんだと思う」
仕事でもそうだし、たとえば人の話を聴くときもそうだ。人の話はさいごまで聴く。途中で割って入らない。
完璧主義とはまた違くて、ある意味自分の感覚を疑っていることが理由だと思う。「もう何もないな」「これはつまりこういうことだよね」。そういう自分の直感的な感覚を、一度疑問視してしまう。
それが忍耐につながったり、思わぬお宝に出くわすこともある。一方で、やはり直感通りだった、ということももちろんある。
ただ、ひとえに、僕は後悔したくないのだと思う。そこにあったはずの何かに気づかずにスルーしてしまうことは、もったいないことだから。
鈍くさいというか、いちいちそうやって待ってしまったり寄り道してしまうものだから、人より決断するのが遅い。もうちょっと、もう少し、といって、時間だけが過ぎていく。それゆえの後悔もたくさんしてきたし、今もその渦中にあるのかもしれない。でも、自分はそういう人間なんだな、とも思う。これはこれで仕方ないのかもしれない。
こうした見過ごせない性格というのを、「見過ごさない」という強みにはできないものだろうか。
今の僕の最大の課題としては、働かなくてはならないというテーマがある。なんとかここに、強みとして結びつけたい。
でも、うまくいかない。何があるんだろう、どんな仕事なら長続きするんだろう。わからなくて、路頭に迷うようにしてこれを書いている。