このブログは2016年8月に始めた。今年2022年で満6年になり、夏から7年目に突入する。
よくもまぁこんなに続いているものだと思う。
続けていく方法
6年間という数字は、小学校をイメージさせる。
入学から卒業までが、ちょうどピッタリ6年間。ツヤツヤのランドセルはボロボロになり、読み書き計算はここで学んだ。
あのときの時間と同じだけの長さを、このブログは刻もうとしている。
それをスゴイというつもりはない。この記事はなにも、お祝いのために書いているんじゃない。単純にふと、なんで続いているんだろうって疑問に感じたのだ。
そこには、続けていくコツがあったかもしれない。
時間をかけたことしか身につかない
東京都の荻窪駅から、徒歩10分の場所にTitleという本屋さんがある。その店主さんの著した『小さな声、光る棚』というエッセイを読んだ。
その中で、若者へ向けた話があった。
「このまま時間を無為に過ごしていいのでしょうか」。
お店に来た若い人とそんな会話をしたらしい。文章からは、日々に不安を感じていることが伝わってくる。僕もそんな若者の1人だ。
だから店主の辻山さんが言った、次の言葉は若年者の心に響いた。
わたしの場合、若いころの無駄に思えた時間が、いまになってから活きた。
いまこの店があるのは、毎日やることもなく新刊書店や古本屋をぶらつき、一回の入場料で三本の映画を見ることができた名画座で、ひたすら時間をつぶしてきたからだ。
人間は、時間をかけたことしか身につかない。
辻山良雄『小さな声、光る棚』
このあと著者は、それが人生の役に立つかどうかは生きてみないとわからない、けれど自分のような場合もあるということだけは覚えていてほしい、と語っている。
普通に続けられることしか、続けられない
似たような話を、たまたま同じタイミングで読んでいた本でも見つけた。将棋界の帝王、羽生善治の著書『直感力』だ。
同氏は最後のほうで、情熱を持ち続けることの大切さを説いている。
情熱を注ぐ対象について、次のように言う。
追いかけるものは、途中で変わってもいい。人は、普通に続けられることしか続けられないものだと思うからだ。
言い換えれば、自分の気持ちに無理を強いるようなことは、続けられないものだということでもある。
羽生善治『直感力』
将棋を続けるのはちょっと考えただけでもなかなかすごいと感じるが、やはり本人が言うと言葉に重みと厚みが出てくる。
普通に続けられることしか続けられない。そのようなことは、別のページにも幾度にわたって書かれていた。
きっと羽生さん本人にとっても、それだけ想いのある考えなのだと思う。
川下り
人は、普通に続けられることしか続けられない。それは将棋棋士でもサッカー選手でも、学校の先生でも本屋さんの店主でも同じだ。
無理なく、そこにエネルギーを注ぎ続けられること。そんなテーマに早くに出会えた人は、幸運なのかもしれない。
努力は必要だ。
キツイ山登りのような、一歩一歩踏ん張って、膝を痛めながらゼェゼェしながら登るような努力もなかにはあるかもしれない。でもそればかりでは息が詰まる。
できることなら、バランスを取りながらオールで向きをちょこっと変え続けていくような、川下りのイメージが好ましい。
このブログも、どちらかといえば川下りに近い。
ずっと同じペースで書き続けているわけでもなく、1年に3回くらいしか更新しないような期間もあった。
きっとそれは、川を出たら大きな池につながっていて、そこでボーッと景色を眺めていたような、そんな期間だったのかもしれない。そしていま、再びオールを手にして漕ぎ始めたってところだろう。
ただボーッとするのに飽きただけじゃないのか、と一瞬思ったけど……
まぁいいか。(^^;)
さいごに
はじめはこのブログ、会社を休職したことをきっかけにスタートした。自己変革という大層な旗を掲げ、3年間の歩みを記録しようなどと意気込んだ。
そんなご立派な理想は裏腹に、いつの間にか(というか最初から)どうでもいい日記を書き連ね、読んだ本や見た映画の感想を雑に書き散らしてきた。眠れない夜にPCを開いては、憂鬱な文章を書きなぐったこともあった。
思えばぜんぶ、普通に続けられることばかりだった。
川を下るときには、きっと川を下ろうとは思っていない。バランスを取ることに専念しているはずだ。
続けることとは、いわば行いそのものに集中すること。いちいち先のことを考えない。
でも、どこへ向かっているのかは頭の片で意識しておく。でないとトンデモナイ場所へ向かっていくかもしれない。
このブログもそんなふうにして、7年8年、10年20年と続けていけたらいいなと思っています。
人は時間をかけたことしか身につかないからね。普通に続けられることを、続けていきましょう。
ではまた。