感情は伝えてこそ意味がある
感情とは、誰かに対してのギフトなんじゃないか。
そもそもいつ死ぬかわからないんだから、ギフトを溜め込んじゃいけないのではないか。
最近、ふとした時にそんなことを思うようになりました。
いつ死ぬかわからないから
「人が死ぬ間際には、本当はこうしたかった、ああしたかった……そうしたことをお話される人が多いんです」
そういう話が、2年ほど前に読んだ『もしも一年後、この世にいないとしたら。』にありました。
著者は清水研さんという方で、国立がん研究センターでがん患者の話を聴いてきた精神科の先生です。
こうしたことは度々見聞きする一方で、いつも念頭に置いて生活するのはなかなか難しいことですね。
伝える意味
いつ死ぬかわからない。そう思い出すのは、人への想いがあるときです。
(ここでの想いとは、ポジティブな感情を想定しています)
まだ自分では知らないだけで、ひょっとしたら明日死ぬかもしれない。わかりませんね。余命数ヶ月と宣告されていようが、健康診断でオールOKであろうが関係なくて。
だから、誰かに対しての想いがあるなら早めに伝えておくのが良いんじゃないかと思います。
一緒にご飯にいきたい。おしゃべりしたい。その他想っていること、いろいろと。
想いとは、自分の中で生成されたギフトであり、伝えるためにあるものなのかもしれません。なぜなら、自分で抱えていても意味がないから。
想いは相手に伝わって初めて意味や価値が出てくる。そう考えると、その想いが本来あるべき場所とは、自分ではなく相手ともいえそうです。
ギフトを持った人は、自らが発送元となり、ちゃんと発送してあげる必要があるのかもしれませんね。
相手に任せる
ギフトは喜ばれるとは限りません。自分は大事だと思ったけど、相手にとっては響かない場合もあるでしょう。
けれども、そうであってもあまり気にする必要もないと思っています。大人の相手なら受け取ったフリをしてくれるでしょうし、もしくは「いりません」と言ってくれるはず。
受け取るか否かは相手が決めること。だから、それは完全に相手におまかせして、こちらは伝えるだけに徹すればいいのではないか、と思います。
それでも自分が伝えないことには、相手は判断のしようがありません。
さいごに
親しい間柄だと「水くさいな〜」なんて言われそうですが、「親しき仲にも礼儀あり」です。
いつ死ぬかわからないというのが世の真理ですから、水くさいなんて言ってないで、大切な感情は伝えてこそ意味があるのだと思いました。
ではまた〜。