人間関係の失敗談
下の文章は占いで誰かに言われたか、書かれていたかしていた。
占いをしてもらうことはほとんどないし、本も2,3冊しか読んだことないのだけれど。
文章の出どころは忘れてしまった。
あなたの前には極端な人たちが現れる。そうした人たちはあなたに心の傷を負わせたり、許せないほどの憎悪の気持ちを抱くかもしれない。けれど、そんな彼らに対して、それではあなたは許せますか、と問われるだろう。
許すこと。それがあなたの人生の課題です。
こんなことを、急に思い出してしまった。
というのも、なんでそんなことするの?(怒)と感じてしまう出来事があったためだ。似たようなケースはここ1年であり、それは今回で3回目。かんたんに言うと人間関係のイザコザだ。
それまでは全然起こらなかったことだったので驚いてしまい、またきっと自分に正すべき要素があるのだろうと思った。
ところが、それが何なのかがハッキリしない。
3回ともどれも似たような結果になっている。ということは、その結果を導いた要素が自分にあるはずだと推測できる。けれど、それだけじゃ疑う範囲が広すぎる。
共通するのは、誰も好き好んでそれはしないはずだ、ということを立て続けに僕がさせてしまっているということだ。
する側(させられた側、被害者)には問題がまったくないとは言い切れない。ただ基本的には、される側(させてしまった側、加害者)に問題があるはずなのだ。
微視的になって、自分の改めるべきであろうポイントは改善するしかない。答えがわからない以上、地道に、気がついた時点から。
そしてこれは言い訳のようになるが、巨視的な立場になって、すなわち相手にも何か事情があったに違いないと考え、自分の問題と相手の問題の両方をまるごと許すことも必要なのかもしれない。
少し話がズレるけど、ここで人の性格が出てくるよね。
あっけらかんとして、「そんなの仕方ないわ」って居直ってしまう人はイチイチ悩まないだろう。
自分のことはわずかに省みるものの、人には合う合わないがあるのだから〜といった具合に感じ良くまとめてしまい、人生は短いのだから次行きましょう、忘れましょうって。
それができる人は僕からみたら羨ましいが、そのあり方が生き方の見本とまでは思わない。
ただ事実としてこの世にはいろんな人がいるのであり、またいつ死ぬかわからず過ぎた時間は戻ってこないことから、過去を振り返ってウジウジするのは愚かである、という意見にはどちらかというと賛成だ。
そんな「そんなの仕方ないわ」に対し、僕みたいに「こちらに大々的に非があるはずだ」と反省する人は悩まざるを得ない。
原因は不明であることがほとんどなのだから(少なくとも当事者にはそう感じられる)、反省する必要のない部分まで省ることもある。
非のある要素の捜索範囲を広げすぎるといよいよ収集がつかなくなり、いずれ「もう根っこから切り捨ててしまえ」となって、たとえば人をもう2度と誘わないと誓ってみたり、人を好きにならないようにしようとか、なんかもうメチャクチャな結論に達してしまったりする。
考えてもキリがないことというのは、たしかにある。
ただ考えなくていいわけでもないと思う。
表現が変かもしれないが、適度に自分を責め適度に相手も責める、そういうバランス感覚こそがここでのポイントなのかもしれない。
……
とはいってみたものの、悲しいことは悲しいし、矛先の定まらない怒りには少々手こずってしまう。
現段階ではまだ気持ちは収まらないが、自分の心のどこかに他人を座礁させてしまう部分があるということ、そしてそれのせいで3人とも自分に対して似たような行動を取らざるをえなくなってしまったことには気がつけた。
「私っていつもこうなのよねぇ」なんてセリフが、小説や現実でもたまに見聞きする。
僕はそれを、いま初めて自覚したかもしれない。
追伸:こんなのブログに書くのはどうかと思って、はじめはメモ帳に書きなぐりしたものをグシャッと丸めてポイってしたのですが、全然気持ちに整理がつかなかったため書きました。
こう書いてみて、悲しさや怒りはありますがそれだけで頭がいっぱい、という状況からは余裕がでました。