先に結論をいいますが、最後まで読んでもよくわからないと思います。
生死に関することを書いています。
最近、心臓が痛いです。
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たぶん、2〜3週間くらい前からだったと思う。
これといって思い当たる節はないのだけれど、あるとすればコロナワクチン4回目を接種したのと、塩分を取りすぎた日があったことくらいか。
どれくらい関係があるのかわからないし、病院にも行っていない。
いまのところ、診てもらう気もない。
近いうちに、心臓がギューッと苦しくなって止まる瞬間が来るんじゃないかと思っていて、それを待っていたいという気持ちがある。
死を意識する時間も増えた。精神的な苦しさから死にたくなることはあったが、今回はそれとは違う。肉体的な痛みとしてそれを感じる。
よく思うのは、みんないつか死ぬってこと。
これは本当に本当なのだ。
就職活動で、人と会う機会が多くなった。
面接対策の講座に参加したときのこと。
そこでは同い年くらいの人もいるし、40〜50くらいの人もいた。集まっている人たちはみな正社員としての職を探している。僕もそのうちの一人だった。
けれど、彼らもやはり100年後にはこの世からは消えているだろうと思った。その間に、彼らの何人かは子供をつくる。自らの遺伝情報の半分を後世に残す。あるいは趣味に仕事にと没頭し、一生を満喫する者もいる。または生に絶望して自ら幕を下ろす人もいるかもしれない。
どうであれ、いずれこの世からいなくなる。残りたくても残れない。地平線から顔を出した太陽は、時間とともに地平線の下へ沈む。
いつか死ぬという事実を無気力の材料にしているのではない。
にもかかわらずがんばっている僕がいる、ということに不思議な驚きがある。だからこれを書いている。
履歴書と職務経歴書を会社ごとに作成する。自己紹介と志望動機を考えた。なのに面接の場で全部忘れる。アドリブでしゃべる。あとになっても何を言ったか思い出せない。
気分があがらず散歩に出かける。図書館で本を借りる。返却催促が来て急いで読む。ほしいものがある。だが節約を意識して買わない。
でも最後は死ぬ。そう思うと不思議な感情になる。
肩のちからが抜ける。けれど完全にダラリとはしない。ヤケクソになって酒に溺れたり、ほしいものを買い込んだりもしない。就職活動を投げ捨てたりもしない。
どうしてなんだろう。
明日がまだあると思っているからだろうな。朝が来て夜になったら、また次の朝がやってくる。これは当然だと思っている。
ほんとうに、近いうちに死ぬとしたら、自分は何がしたいんだろう。
後悔することってなんだろう。
考えてみるけど、恋がしたかったとかあの服を着たかったとか、村上春樹の小説をもっと読みたかったとか、ジョン・ウィック4を見たかったとか。
……なんか、どれもくだらないな。
でもそんなもんだよな、人生って。
別に人生に大きな何かを期待しているわけじゃないんだ。
ただ書いてみて、そんなもんだよな、と素直に思ってしまった。
始まりに意味がないなら、終わりにも意味なんてありゃしない。
生まれたことに意味なんてない。同じく死ぬことにも意味はないんだろう。
それでも、意味がほしくなってしまう。どうしてかわからないが、それを欲するようにプログラムされているように。だが意味を持ってしまうと、それはやがて執着になる。思考をしばり、死を受け入れられなくなるのではないか。それも怖い。
生まれるとか死ぬとか、そういう点として現象はどうでもいいんだ。大事なのは面だと思う。生まれてから死ぬまでのあいだのストーリー。すなわち、どう生きていたいか、という意志だ。
ここでおもしろいことを思いついた。
面ということは、表と裏が存在する。
もしかしたらどう死んでいたいか、が裏テーマとして存在しているのかもしれない。それは死んでみないとわからないよな。空から水面を見るのか、海底から水面を見るのか、といったふうに。
あぁ、これを書いているあいだにも心臓が痛い。
痛いというか、負荷がかかっている感じがする。そしてときどき鈍くうずく。
これは悪くないと思う。
残念なことでもない。
我々はいつか死ぬ。忘れていたり、見ないようにフタしているだけだ。でもそれは常にある。好きにしたら良いと思う。
たまたま生まれたのだから、いつかのタイミングでたまたま死ぬんだ。
現在は2022年11月28日02:47。このときにはまだ生きているが、少なくとも100年後の2122年には僕は確実にこの世にはいない。この心臓の痛みとは関係なく。そういうもの。