疲れているはずなのに眠れない。
あくびは大量に出るのに、思考が頭を駆け巡る。
布団に入ると、生きていることを考え始める。なんで生きているんだろうって疑問ではなくて、ただ自分が生きていることを客観視し始める。
生きていることって本当に不思議だ。
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いま僕は就職活動中で、今日も面接を受けてきた。「あと1〜2回来てもらいたい」と言ってくれたが、すでに内定をもらった企業があり、そこに決めようかと思っている。
当初そこは第一志望ではなかったものの、こういうのは縁とタイミングが絡んでくる。
30歳になり、無職になって1年がちょうど過ぎた(キャリコンの勉強してた)。
就職は大事な人生の転機だ。できればじっくり時間をかけて吟味したい。だが現実的に考えて、そろそろ決断を出すべきであると感じている。
時間をかければ成果が上がるとは限らない。
どこかで腹をくくり、勝負に出なければならない。
今日の面接をしてくださった企業にはとても好感を抱いたけれど、おしくもご縁は繋がらないかもしれない。すでに内定が出ているところで働きはじめ、新たな一歩を踏み出したいと思っている。
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生きていることが不思議だという感覚は、この就職を決めるときにも感じられる。
「どの企業に就職しようか」とか「面接でこんなことを言ってしまって失敗したな」とか。そんなのは、寿命の尽きる寸前にはたいていどうでもいい出来事だと思われる。
もちろん変な会社に入ってしまって人生を狂わされた人もいる。人生は選択の連続だと言われるが、なかには人生を左右する選択だってあるはずだ。
だから、「たいていはどうでもいい出来事だ」なんて言い切るのも良くない気もする。
ところが、これを考えていること自体もまた、死を前にしたときにはおそらくどうでも良くなっているんだろうな、などと感じる。
一周回って、何考えてるんだろうって気分になる。
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30歳になる手前でくも膜下出血か何かで倒れてしまった人がいた。手術後、3年間ずっと眠り続けていたそうだ。本人いわく、起きたら、ただ単純に数字として3年間が過ぎていただけで、実感はなかったという。
しかし退院して実家に戻った際、弟の身長がかなり伸びているのを目の当たりにして、ようやく「俺、本当に眠っていたんだな」と理解したようだ。
いつ、なにが起こるかわからない。
なのに僕は、働くことになるであろう企業を選ぶ。再び着るであろうスーツをクリーニングに出す。温泉旅行にいく計画をたて、友達とライブに行く約束をする。
当日、なんて来るかわからないのに、我々はその「当日」が来るという前提で物事を考える。
変だよなぁ、なんて思った。
でも、生きているという状態を、生物という言葉に置き換えてみると、なにも変ではないとも感じた。
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昨年長野県で畑仕事をしていたとき、『生物と無生物のあいだ』という本を読んだ人がいた。
彼女が感想を語ってくれた。
生きているか生きていないか。それを分けているのは、膜があるかないかの違いなんだって。
膜を設けて、空間を内と外で分けて区別する。その内側が命の最小単位で、生きているという状態だと知った。
環境は猛烈に変化する。そのなかで膜によって己とそれ以外とを区分する。
命というのは膜の内側のことをいっていて、それは絶えず外側に広がる環境の変化にさらされる。
なんだか僕は、その膜の内壁から外側の世界を覗いていたように感じた。
まるでSF映画に出てくる宇宙船の、窓から宇宙空間を眺めるみたいに。
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我々一人ひとりは宇宙船であり、中には人生が詰まっている。
船は時間とともに劣化する。どこかで破れ、外側の環境と同化する日がやってくる。それは事実なんだよね。
さらに、自分からあえて内壁に傷をつける必要はないんだよね。
その宇宙船はあなただけのものだ。
どの企業に入社するか。子供はつくるのか。マイホームか賃貸か。
あらゆる選択があり、その数以上に悩みや迷いがある。しかしそのすべては宇宙船内のレイアウト決めのようなもので、場合によってはやり直しもできる。
そうだな、人生は宇宙船なんだな。
そろそろ深夜3時になる。白湯をのんでいたら眠くなってきた。
眠ったら、夢の舞台は宇宙船だろうか。窓からは何が見えるんだろう。