弱くあるという強さ
長野県で畑仕事をしていたとき。東屋には野菜の包装用として新聞紙が保管されていた。
あるとき1人で作業をしていて、東屋で休憩していると、ふと新聞を開いてみたくなった。パラパラとめくっていくと、一つの文章に巡り合った。
いろんなつらい出来事にあって、それでも生き延びてきた、という意味では、レジリエンスのひとつの形ではある。ただ、そのために失った素直さや、優しさ、人間的魅力は、その人から、人生の味わいをも奪ってしまう。
そう語るのは、精神科医であり一橋大教授の宮地尚子さんだ。
彼女は続けて次のように話す。
人生の味わいというのは、裏切られる可能性があっても、人を信じてみる力、つまり「傷つきやすさ」からくるのかもしれない。
(中略)
「傷つきやすさ」とは、より正確に言えば、「傷つく可能性に自分を開き続ける力」であり、それは弱さであるが、強さでもある。
これを読んだとき思わずハッとした。強ければ良いわけじゃないんだ、弱さという強さもあるのだな、と。
手でその記事だけ破き、畳んでポケットに入れて仕事終わりに持ち帰った。もう2年前の出来事になるが、今もこうして手元に残してある。
弱さを「弱さ」のままにして生き続けるというのは、ある意味ではとても強いことなのかもしれない。
そして弱さを、優しさや素直さなどを犠牲にして強くしたとしたら、それはほんとうの強さではないのかもしれない。
弱いとはなんだろう。強いとはなんだろう。
宮地さんは文章の最後で、「だまされてみる、翻弄されてみることを、いつまでも恐れずにいたい」と語っている。
可能性に向けて自らをオープンに保つこと。これこそほんとうの強さではないのか。
その強さは、日常生活ではなかなか強さとして発揮されないかもしれない。だからつらいし弱いのだ。でも人生の大切な時期であったり、非日常的な緊急時などでは強さとして発揮されるであろう。
弱くあるという強さがあるならば、弱いままでもいいのかもしれない。
そう思った。