社会の馬
先日のブログ記事『他人に合わせる生き方をやめたい』にコメントをいただき、その返信で書いたことの続きです。
コメント欄にて
他人に従うのは得意だが、自分に従うのは苦手である、という内容です。
ながみねさん(id:skylecord)、コメントいただきありがとうございました。
誰かの乗る馬になって走るのはとてもラクです。
けれど、実は自分という馬には自分という専用の騎手がいて、彼を放ったらかしにしていると怒ってしまう。当然ですよね……。
誰が乗っても走れる馬になるよう、幼いときに調教されてしまいましたよね。
でも本来の騎手は自分なんだよなぁ……なんでこんなことになってしまったんでしょうか。。
乗馬のたとえがわかりやすくて、コメントで返信しましたが、考えが膨らむのでここに書いておこうと思います。
その馬には誰が乗るのか
学校というのは、「誰が乗ってもちゃんと走れる馬を調教するための施設」なのかもしれません。
ここで強調されるのは、”誰が乗っても”の部分。
自分の馬に、騎手としての自分が乗れるのは当然だということで、それ以外の自分ではない誰かが乗れるための訓練を学校で受けます。
ところが、毎日がその訓練ばかりになるわけです。
いつの間にか主としての自分の乗せる調子を忘れてしまい、自分以外の誰かを乗せることだけを覚えていってしまう。
これは比較的マジメで完璧主義の人に当てはまりそうです。
そうして自分ではない誰か(学校の先生に始まって、先輩、親など)に合わせることばかりが日常的になっていくわけです。
けれども、もともとの主は自分自身であることは暗黙の前提になっていて、忘れた人は忘れた人が悪いのだと批判される。
誰から? 先生や親、社会、そして自分自身から。
はじめからずっと隣りにいた自分という騎手はいつの間にか放ったらかしになっている。思い出したころにはもう調子が合わない。
誰かに合わせることを意識しすぎた結果、本当に合わせなきゃいけない自分自身への合わせ方を忘れ、重要さを見失う。
そうして社会に出てしまったあとで、たくさん傷つき苦しんで、ようやく思い出す。ずっと誰かのために走っていたことに。
自分じゃない誰かを背負って走るのは、もちろんあるときには必要だし、だから学校ではあの手この手で教えるわけですが……それは”あるときには”であって、通常は他ならぬ自分自身が自分という馬に乗るべきなんですよね。
だけれどマジメで完璧主義な人は、自分自身を大事にしつつ自分以外の人にも調整できるようにする、などというバランス技はむずかしいもので。
「こうしろ!」と指示されると、「わかりました」といってそっちに合わせるために全力を出してしまう。そんで、あとになってある程度戻すハメになる。
この戻すレベルが恐ろしくダルいしめんどくさいし時間が必要。場合によってはお金もかかる(通院費や薬代として)。
あぁ、書いていてバカらしく思えてきました。
私は私のために走る
自分という馬には本来自分という騎手が乗るべき。
でも子供のころはそれしか知らず、誰かを乗せて走れるように学校で調教される。
すると、ある意味頭の悪い馬たちは本来の騎手を忘れてしまい、誰かを乗せればいいんだと勘違いを始める。
あるいは、誰かを上手に乗せないと叱られることもあって、叱られたくないから自分以外の誰かを乗せられるように、自らを矯正する。
学校という調教施設を卒業したあとは、本来の主の乗せ方をすっかり忘れている。社会のための馬ができあがる。
でも、どこまでいったってその馬は、本来の騎手である自分以外にはフィットしない。
自分の人生は自分が生きるしかない。誰も代理にはなってくれない。
働いてストレスためて病気になったって、「そんなの知らないよ?」って顔をされる。
心配になって気にかけてくれる人がいても、そこまでしか他人には為すすべがない。みんな自分という馬に乗って、自分という騎手を選んで走っているから。隣を走る馬の調子が悪くたって、2頭同時には乗りこなせない。
仕方ないんだ。そういう世界。
だからこそ、本来の騎手をしばらく放ったらかしにしてしまった社会の馬は、気がついた段階でもとの主に頭をさげて謝罪しないといけない。本来はあなたに従うべきだったことを忘れていました。すみませんでした。って。
30歳になってようやく気がついたよ。
幸い、学校教育のおかげで合わせることは基本的には得意なはずだから、本来の主に合わせられるのは時間の問題かもしれない。
少しずつ、元に戻していきたい。
私は私のために走る。
たまに他人も乗せるけど、本来の騎手はこの自分なんだと、改めて心に刻みたいと思いました。