小さなことを地道に続ける人
今日は献血に行った。
生きているだけで誰かのためになる、って良いよね。
献血を始めたのは2020年だった。あのとき、会社を辞めて、はじめて社会のなかで宙ぶらりんになった。
それまでは周囲から役割を与えられていた。学生、塾の先生(アルバイト)、社会人。そんな一般人が集まるフィールドから離れたとたん、身に覚えのない孤立感が生まれた。
自分は何もしていない。激務すぎて2度目の適応障害と診断されたから退職し、ちょっと休もうと思って最初の2週間くらいはしっかり休めた。
けれど、それ以降は身体と心が緩まるのと同時に、「オレってこのまま社会から遠く離れていくんじゃないか」と思っていた。まるで宇宙空間に放り投げだされたみたいに、人知れずスーッと離れていくみたいに。
で、なにかできることはないかと思って、小銭をレジ前で寄付してみたり、神社にお参りにいったりした。でも何か違った。もっと直接的で、社会とのつながりがわかるものがいい。
そう思っていたら、献血がいいんじゃないかと思い浮かんだ。
それ以来、定期的に献血に行くようになった。
今日は雨も降っていたし、平日だったから人はあまりいなかった。でも何人かのなかにかわいい女性がいた。献血を通して始まる恋の予感……なんてことはない。一度も目を合わさず帰宅した。
よく行く献血ルームのリーダーっぽい人からは、強い情熱が伝わってくる。熱血タイプだと思う。高校のラグビー部の監督をやってそうな男性。
きっと、献血に対してひときわ熱い想いを持っているのだと思う。身内が助けられたとか、なにかあったのかもしれない。
給料は高そうにはみえない仕事だ。でもその人は、おそらく己の使命に突き動かされている。いつも声をはって駅前で「献血やっています」って叫んでいるのを、僕は見ている。おそらく近隣住民も一度は目にしたことがあるはずだ。
熱い情熱はそのようにして、声なき声の持ち主にちゃんと伝わる。それがいつしか行動につながる。
だからあの人には、声が枯れるまで駅前で叫んでいてほしい。無視していく大勢の人のなかで、何人かは献血ルームに足を運ぶ。
献血しているときにテレビを眺めていた。世界の主要国が集まって、核廃棄に向けての会合があったらしい。
僕はそういうのを見てイヤな気持ちになる。そこに集まるお偉い方たちは、表向きは「核はやめましょう」とか言いつつも、ゼッタイにやめないからだ。
やめる気がないのに、話し合いだけはご立派にやる。それをこの先10年、100年と未解決を維持するのだろう。大の大人たちが何をやっているんだろうか。恥ずかしいおままごとをやっているようにしか見えないのだ。
そんな「やっているフリ」だけしている人たちと比べたら、僕は駅前で何人もの人たちに無視されながらも大きな声で「献血にご協力お願いします」って叫ぶあの人のほうが好きだ。
僕はあの人みたいに、小さなことを地道にやり続ける人を応援します。