「あなたには、人と深い関係を築けるという強みがある」
と言ってくれたのは、心療内科の先生だった。
嬉しかったけれど、それはそれであって、それからどこかへ発展することってなかなか望めない。どこかへ連れて行ってくれることも望むのもおかしい。
それはただそれだけなんだよな、などと思ってしまった。
わけもなく、昔からよく手のひらを見る。
それは自分の身体の一部。身体のどこかをまじまじと見つめることって少ないけれど、手のひらその中でも比較的見えやすい位置にあって、ふとしたときによく手のひらを見つめて生きてきた。
勉強に苦しいとき、スポーツで自分の番が来るまでの緊張の瞬間、夜中の1時に憂鬱になりながらボーッとしている今でさえも。
この手のひらは、子供から大人になるにつれて大きくなっていった。細胞が幾多にも重なり、そして剥がれて今にいたる。
それは考えてみると不思議なことだ。細胞が生まれては死んでいく、そのサイクルのなかで手のひらは常時存在する。1年前とそう変わらない厚さを保ち、温度をもって。
死んでいながら生きている。1つの細胞に1つの命があるならば、この手のひらにはいくつの命があり、今日はいくつが死んでいくつが誕生したのか。自分の身体のことなのに、僕は何も知らない。
生きているくせに、なんで生きているのかを知らない。苦しみたくないのに、なんで憂鬱になっているのかを知らない。なぜあのとき死なず、なぜ今日まで生きてきたのかを僕は知らない。
誰も助けてはくれない。こんなにつらいことはない。
誰かを助けてやることもできない。そんなにつらいこともない。
寝ていて夢を見ているあいだだけが救われる。どうして夢のなかの自分は落ち込んだりしないんだろう。おかげで毎日12時間寝ている。身体的には寝すぎだが、意識的にはもっと寝ていたい。欲を言えば50年くらい眠っていたい。起きたら老人になっていたいし、なんなら目覚めなくてもかまわない。
こんなことを思っていても、なぜか呼吸は止まらない。ノドは乾くしお腹も減る。これも不思議だ。意識と命はつながっているようでつながっていない。
あなたには、人と深い関係を築くことできるんだね。
そう言われたけど、僕は自分自身と深い関係を築けているようには思えません。それが一番大事な気がするんですが、先生はどうお考えですか。
アジカンの『タイトロープ』はこういうシミッたれた夜にいい。
タイトなロープ=綱渡りのロープのことらしいが、僕と僕のあいだのロープはどれくらいの強度があるのか。
意識と命のように、つながっているようでつながっていないのかもしれない。