五木さんの文体、好きです。
夜のオトモになる一冊でした。
「死の教科書」
気楽に生きる
人間の価値というものは、生きている__この世に生まれて、今日まで生き続けている、そのことにまずあるのであって、生きている人間が「何を成し遂げてきたか」という人生の収支決算は、2番目、3番目ぐらいに考えればいいのではないでしょうか。
御年90歳、五木さんの言葉です。
これを読んで思い出すのは、ある葬儀屋さんのインタビュー記事。
その人は、火葬され、さっきまで肉体があった身体が骨だけの状態になったのを見てこう思ったといいます。
「人は死んだらただの骨になる」と。
何を成し遂げたのかなんて、燃えればただの骨になるという事実を考えると、どうでも良く思えるかもしれませんね。
日々にもまれ、雑事に身を粉にしていると忘れてしまうことではあります。
そんな荒波な毎日のなかにのブレない軸として、五木さんと葬儀屋さんの話は刺さるものがありました。
しぶとく生きる
いまはどんなに退屈で、どんなに無味乾燥な毎日であっても、生き続けていれば、輝かしい人生の目的と生の充実感に出会える可能性はきっとあるはずです。
こう言われても、健常なときは何も思わないでしょうし、辛いときは「ほんとかよ」と睨みつけてしまう気がしました。
対して、以下はロシア作家で『どん底』という戯曲をかいたマクシム・ゴーリキーという人の言葉です。
僕的にはこちらのほうが受け止めやすかった。
人生とはひどいものだ。本当に残酷で、いいようもなく愚かしくひどいものだ。
だからといって、自分からそれを放棄するほどまではひどくない
いつの時代も、どの国でも、何の仕事をしていようとも、人生を放棄したくなる人はいるのですね。
自ら放棄するほどひどくない。
僕にはまだこれがよくわかりません。
でも、じゃあ何をかてにして生きていったらよいのか。
この点、五木さんの言葉が温かいです。
自分だけの人生の目的をつくるとは、言いかえれば「ひとつの物語をつくること」かもしれない、と思うのです。
どこかで聞きました。「人生は一本の映画だ」。
自分だけの物語をつくっていくこと。
これにはしぶとさが必要ですね。
楽しく生きる
人間は生まれた瞬間から死に向かっています。
すべての人がいずれ死ぬことは確定しており、死ぬまでの時間が長いか短いかの違いだけ。
そして、五木さんは次のように続けます。
だからこそ、今日一日と思って、毎日を生きるしかないと思うのです。明日のことはわからない。
だから、今日という一日を大切に生きる。私自身、あるときから、そう考えるようになり、今日まで生きてきました。
この本の中には、「楽しく生きよう!」という内容は書かれていません。
けれど僕は上の文章を読んで、やはり楽しまないともったいないんだと感じました。
と同時に、素直にそう思えない自分も感じています。
ものすごくありきたりだし、昨今いろんな人が似たようなことを言っています。
でも僕には上の言葉やその他の人の話を聞いても、イマイチ踏ん切りがつかないのです。
たぶん、経験値が足りないのですね。
ポケモンのレベルアップみたいに、あるとき経験値がマックスになって初めて「ピコンッ!」。レベルが上がる。そのためには何度も戦わないといけませんね。
同じようなことを何度も言われて、見聞きしないと僕はレベルアップできなさそうです。
「今日一日と思って毎日生きる」。それはきっと、死を自らの肉体をもって感じないとなかなか実感がわかないのだと思います。
今の僕にはわかりませんが、でもそういうことなんだよと、五木さんに言われた気がしました。
さいごに
『死の教科書』は、五木さんの文体も相まってとても読みやすいです。
気分をあげようとする企てもなく、でも落下していくわけでもなく。眠れない夜のオトモになりそうな一冊でした。
それはそうと、これを書いていたらしぶとく生きた人の映画が見たくなりました。
なにかあったら教えて下さい。
ではまた。
▽写真
撮影場所:長野県
カメラ:X100V、LeicaM240