献血に行った感想。一生なぜなぜ期の子供でいたいです。
献血に行ってきました。
2020年から始めて、今回で7回目。
手を取り合う話から、なんでか意識と無意識の話になり、最後になぜなぜ期の子供が出てきます。
社会貢献してきたぞ〜っていうような気持ちは特にありません。
あまり考えていないというのが正直な感情。
あえていえば、貿易だよね。
何かに対して、できる人や得意な人がやったらいい。
できなかったり苦手な人は、別の分野でできたり得意だったりすることをやったらいい。
社会科で習った国通しの貿易と、なにも変わらないと思います。
あなたは、あなたの意識ではありません…?
今日は、献血で測定されたデータが送られてきました。
それが冒頭の写真の項目なんだけれど、これを書いている僕自身は、たとえば「総蛋白TPはこれくらいに調整しよう」とか意識していないわけ。
なのに、意識の外側では勝手に作られているという事実。
これって、ものすごく不思議よね。
「あなたは、あなたの意識ではありません」という話をどこかで見聞きしました。
そんなこと言われたって、よくわかりませんでした。
その話を聴いた自分も、そうだろうかと考えている自分も。ぜんぶ「意識があるこの私」なのだから、私=意識であり、意識=私じゃないの、って思ったのです。
これは半分は当たっていると思います。
でも意識して赤血球をつくっていないように(またはつくれないように)、この身体と私という意識は必ずしもリンクしてはいません。
自分の肉体なのに、制御できる範囲に限界があって、血液をつくったり心臓を動かしたりするのは、その範囲の外側にあるんですね。
その外側の境界線が、肉体の皮膚なのかもしれません。
……と、こんなふうに考えを図に整理みてみたのですが、途中でまた不思議に思いました。
「音楽を聞くのも文字を書くのも意識してできることだけど、背景にあるのはやっぱり無意識じゃないのか?」
だって、音楽を聞くにはそもそも耳に神経がつながっていないと聞けないよ。
それだけじゃない。
空気の振動を電気信号に変換し、神経がそれをほかの信号とゴチャ混ぜにせずに脳に伝え、そこでようやく音として認識できる。
そうなってはじめて、ロックだのバラードだのって楽しんでいるわけだよね。
耳ってすごいな……。
水面=海ではない…!
手足を動かしたりするのもまったく同じことがいえる。
つまり、意識してできることというのはものすごく表面的なレベルであって、いわば海の水面だけを見ているにすぎないのではないか。
水面の下が浅い場合もあるし、深い場所もある。
だけど、いずれにせよ、水面とは水がないと存在しないはずだ。
すなわち、無意識がないと意識は存在しえないんじゃないか……?
そう考えたら「私=意識であり、意識=私じゃないの?」っていうのは間違っているね。
「海=水面で、水面=海なんじゃないの?」って言っているのと同じ。
なんてこった。(笑)
さいごに
まぁ、こんなふうに、献血に行っただけでここまで考えが広がるんです。
それは、不思議なことでいっぱいだから。
僕は、この不思議なことをたくさん知りたいね。
だから一生勉強していたい。
一生疑問を持ち続けたい。
一生「なぜなぜ期」の子供のままでいたい。
ではまた。