読書のあとに物思いに耽りました。
先日、村上春樹『海辺のカフカ』を読んだ。
15歳の男の子が家出をし、世界の結び目に足を踏み入れる話。
途中まではドキドキしながら読んでいました。もっと先を早く読みたい、もっと先を知りたい。
僕がいまでも紙の本を選んでいるのは、電子書籍だと、あの「ページをめくるときに世界が一新される感覚」が味わいにくいからです。画面のなかで変わるでしょ? 物理的に、ペラっとやりたいんだよね。
それはそうと、読み進めていくとだんだん哀しくなってくるのよね。特に小説って毎回そうなる。
もう終わってしまう、まだ終わってほしくない。ページをめくる度に残りの厚みが薄くなっていく。終点が近づくにつれて感情もクライマックスを迎えるけれど、哀しさも頂点に達する。
そうして最後のページになって、最後の文章のうしろは空白が続く。あぁ終わってしまった。ふぅ、とため息がでる。
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小説って、誰かの人生を部分的に見させてもらっているんだよね。いろんな人が出てきて、いろんな感情になって。
よくないと理解していながらそうせざるを得なかったときの心情や、ノドで言葉が詰まってうまく言えないままになってしまった辛さとか。日常生活でだれもが経験があるはずのことで、でもだれもそれを明らかにせず忘れ去って、なかったことにしてしまう類の出来事が、小説では丁寧に描写される。小説は文字列による絵画だね。
小説はあくまで作りもの。事実をベースにしていても、書き手によって内容が取捨選択される。それによって意味のまとまりと物理的な形が与えられる。だから読み直しもできるし、ストーリーを体感する速さも各々で調整できる。
人生は、事実そのもののストーリーだけど、意味のまとまりはないし、形もない。巻き戻しはできず、一方通行で同じ速さで進んでいく。
小説は繰り返すことはできて、人生は繰り返せない。
小説の場合は、途中はすごくたのしくて早く次へ、ってどんどん読みたくなる。終わりが近づいてくると哀しさを感じだす。
人生も同じなんだと思った。途中で、まだまだ後ろが分厚いときはページを1枚、2枚と繰っていってもさほど変わらない気がする。だってまだページがたくさん残ってるから。でも確実に終わりへと近づいていて、いつの間にか残りが薄くなっていっていることに気がつく。急に哀しくなってしまう瞬間がおそらくあるだろうと想像する。
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我々は1冊の小説なんだと感じる。一人ひとりが1冊の本で、厚みは人によって違う。
書き記しているのは、ほかでもないその一人ひとりである。我々が自ら進んでやっていることも、ガマンしながらムリをしてやっていることも、結局はすべて自分で執筆している。
会社に行くのがイヤなのに毎日通勤電車に揺られることを選んでいるのはだれなのか。やりたいけど、今さら始めてもムダだと考えては手を付けないのはだれなのか。
人生の小説の書き手は命かもしれない。命によって綴られた物語のなかで、我々は意思をもってアレコレ考えたりやったりする。
そう考えたら、意思によって命を絶つというのはなかなかの反逆的行為だ。物語が書き手を殺すなど、普通だったら考えられない。
その物語は繰り返せないもの。
書き手は他ならぬ我々一人ひとりであること。
『海辺のカフカ』を読み終わって、そんなことを思っていました。