日頃から、読書やネットニュースで生死に関する文章を読んでいます。
以前、NHKの特集ページである記事を読みました。
今日はその話をします。
苦悩のつめ跡
ニュース記事は、56歳の男性が部屋で一人亡くなっていたという話です。
その男性がまだ小さい頃から父親が書き記した日記もあり、父親として息子にどう接する際の苦悩が感じられる内容でした。
家族写真もいくつか掲載されており、仲睦まじい生活が残っていました。
それとは裏腹に、どこかでボタンをかけちがえたみたいにギクシャクしていく親と子供。
記事を読んでいて、何をどうすればよかったのか、パッと答えが思いつきません。そんな答え、ないのかもしれません。
子育てって、難しいですね。
また、衰弱死してしまった男性は昔から英語が好きで、それを活かした仕事に就きたかったようです。
死ぬ直前まで英語を学習していたことから、よほど強い意思があったのだろうと思います。
しかし当時はまだ職業支援も広がっていなかったようで、それも悔やまれます。
父親も息子も、互いにどうすればよかったのかわからなかったでしょう。
苦悩のつめ跡が記されている記事でした。
中間地点
夜になると、よく散歩をします。
歩く場所は決まって、川沿いの土手。片方には街の明かりがキラキラと見え、もう片方には川が流れていて真っ暗です。
昨日もそんな環境を散歩していたときに、思ったことがありました。
それは、明るい場所と暗い場所、その中間地点に存在することの心地よさについてでした。
心地よいというより、フィットするような、自分が自分らしくあれる環境のような気がしました。
ネットでそうした故人の記事を読みたくなる理由。そして他人の人生の話を聴きたくなる理由。
それは、生と死、自分と他人とを俯瞰できるような、それらの中間に一瞬だけでもいられるような気がするからなのかなぁ、と思ったんです。
余談ですが、以前面白半分でマヤ暦について調べてみたことがあります。昨年、星占いに興味を持ったときでした。
で、調べると自分の特性が出てきたのですが、そこに「橋渡しの存在」とありました。
他にもいろいろと書いてありましたが、唯一その言葉がハッキリと記憶に残っています。まさにそうだ、と思ったのでした。
橋渡しの存在ということは、何かと何かの中間にいなければなりません。その意味でも当てはまるし、いま目指しているキャリアコンサルタントだって、相談者さんがよりよくなれるように橋渡しするのが役目です。
また、人に何かを伝えたり教えたりするのも好きです。
これらのことから、やはり自分は橋渡しの存在、中間地点に存在するのが適切なのかな、なんて思いました。
さいごに
生死について、どうしてこんなに関心を抱くのか。もしかしたら、僕は生と死の中間にいるような存在なんだろうか。
たしかに生きたくなったり死にたくなったりを繰り返しているから、当てはまってはいるけれど。(^^;)
答えのない問いだから、そこに惹きつけられるのかもしれない。あるいはもし前世があるなら、それにこだわる理由が過去にあったのかもしれない。
理由はともあれ気になるし、これからもそれは続きそうです。